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泣いて笑って生きぬいて 〜外科病棟25時〜

泣いて笑って生きぬいて表紙

 

 

著者:外科部長 中尾照逸

出版:芸術生活社

 

外科外来の診察室で、手術室で、そして病棟で、日々神によるPL医療の実践を目指す著者の、患者やその家族との温かい心の交流を綴った35編のエッセー集です。

外科医となってほぼ30年、著者は多くの患者が、泣いたり笑ったりしながら残された時間を懸命に生きぬいて、旅立っていく姿を見続けてきました。

本文より一部抜粋

【第一章 外科病棟スケッチ】から

Wさんは、少女のようなうぶな雰囲気をたたえた不思議なおばあさんでした。郷里の病院で胃ガンの手術を受けたのですが、周囲の臓器へ浸潤していたため、バイパス手術のみ施されました。

一人暮らしに慣れていたWさんでしたが、手術して半年たったころから食欲が落ち始め、時々吐くようになったため、息子さんが心配して大阪へ呼び寄せました。そして、私たちの病棟に入院となったのです。

入院当初は、吐き気と骨転移による腰痛を訴え、つらそうなWさんでしたが、モルヒネ持続皮下注射を始めたことで症状が落ち着くと、私たちとユーモラスな会話を楽しむようになりました。

外来診療や手術を終えて病棟に上がり患者さんを診て回ると、最後に立ち寄るのがWさんの部屋になります。
「先生、お疲れでしょう。どうぞ座って休んでいってくださいな」
と、Wさんは笑みを浮かべながら恥ずかしそうに口に手を当てて、僕に椅子を勧めるのでした。

その日の体調を聞いて診察を終えると、Wさんのお話が始まります。それは故郷の風景であったり、幼いころの思い出であったりしました。

ある時は、胃の手術をしてくれた郷里の病院の先生の話になり、
「優しくて何でも話せる先生でした。あーあ、懐かしいI先生に会いたいな」
と、視線を郷里の空の方へ向けるのでした。

腰の痛みが強くなるにつれて、モルヒネの量も増えました。ベッドから立てないほど体力が衰えたWさんは、悲しそうにほほ笑んで言いました。
「先生、私の命もあと三日だと思います。お世話になりましたね」
「あと三日と思われますか……。今は思うように体が動かないから弱気になっておられるのでしょうね。でも、いつも楽しいお話をしていただいたので僕も感謝していますよ」

そしてWさんは自分の言葉通り、三日後に息を引き取りました。僕は、Wさんの臨終までの様子を報告書にまとめ、I先生に送りました。一週間ほどして、I先生から返事が届きました。実直な人柄を表す丁寧な書体で「Wさんがご家族の近くで最後の日々を安らかに過ごせたことは、元主治医としてせめてもの慰めです。皆さまの手厚い医療に深く感謝いたします……」と。

恥ずかしげな笑顔のWさんが「ねっ、言った通りの素敵な先生でしょう」と、耳元でささやいたかのようでした。

【第二章 告知 さまざまな形】から

十六回目のお正月

Sさんは三十代半ばの、ほほ笑みを絶やさない静かな女性でした。陽気でバリバリと表現するご主人は、会社の経営で忙しく家庭を顧みる余裕のない日々を送っていました。

ある年の秋のこと、Sさんは体がとてもだるく感じ、動くとすぐに動悸がするようになりました。また、みぞおちの痛みも続くため夫に相談しました。驚いたご主人は、早速妻を私たちの病院の内科に連れてきてバリウムによる胃透視検査を受けさせました。

すると、胃の入り口近くに大きなクレーター様のしこりが写り、内視鏡検査の結果を待って外科へ紹介されました。今から十五年以上前のことで、当時はまだ進行ガンの告知は行っていませんでした。ご主人に本当の病名を伝え、Sさんには「胃の入り口近くに大きな潰瘍をともなったしこりが見つかりました。これが貧血の原因ですので、胃を全部切除する手術が必要です」と説明しました。

開腹してみると、ガンは胃の壁を貫いていたものの、胃と一緒に網嚢(もうのう)という胃から垂れ下がっている脂肪組織でできた袋ごと切除すれば、ガンを残さず取りきれることが分かりました。そこで、胃全摘術と膵臓の一部と脾臓を同時に切除する手術を行いました。

術後、縫合不全という合併症のため、おなかの中に膿がたまり発熱が続く事態となりました。Sさんご夫婦に病状を伝え、超音波で見ながらたまった膿を取り除く処置を繰り返しました。
「何度も痛い思いをさせて申し訳ないのですが、食事ができるようになるにはおなかの中をきれいにする必要があります。もう少し辛抱してください」と説明する僕に、Sさんは逆に「きっと良いことになると思いますので、先生がベストと考える処置をなさってください」と励ましの声をかけてくれるのでした。

Sさんは手術前と同様に笑みを絶やさず、冷静に療養生活を送り、夫とともに神様に一刻も早い回復を祈っていました。また、かわいい子どもさんたちの励ましを支えに、自暴自棄に陥ることもありませんでした。

◆◇◆

術後一カ月を経てやっと食事を開始し、ニカ月近くたった年明けに無事退院となりました。

外来では、「ご飯は何とか食べられますが、おみそ汁がうまくのどを通らないので困っています」と食生活を報告してくれるSさんでした。

病後は以前通り家事と育児を一手に引き受け、体力的に大丈夫だろうかと案じていたのですが、家族の協力で上手にやりくりできていると分かり、安堵しました。病状が落ち着くのを待って、遠方から通院しているSさんの事情を考慮して、近くのかかりつけの先生に必要な薬を処方してもらうようにしました。

忙しい日常の診療に追われ、多くの患者さんとの出会いと別れを繰り返しているうちに、いつしかSさんの記憶も薄れていきました。

ある日、Sさんから手紙が届きました。その手紙にはSさんらしい几形帳面な字体で、近況が綴られていました。
《……おかげさまで無事十六回目のお正月を迎えさせていただくことができました。当時、小学校と幼稚園に通っていた子どもたちは元気に成長しそれぞれに独立しました。数年前に長女を嫁がせる時に主人から本当の病名を聞きました。ショックと同時に受けた温情に思いを致し、幼くて当時のことを知らない次女と一緒に泣きました。隠し通した主人のつらさを思うと感謝の気持ちでいっぱいになります。もうすぐ初孫が生まれる予定でおばあちゃんになります。花嫁姿も見ることができ、孫も見られるなんて本当に夢のようです。これからは、皆に少しずつでも感謝の心をお伝えしながら齢を重ねてゆけたらと思っております……》

手紙を読み終えて、Sさんを外来で診療していた当時の様子を思い返してみました。しかし、病名を隠しながら苦労した思い出は少しもなく、Sさんの医療を信頼しきった穏やかな笑顔が浮かんでくるばかりでした。

Sさん夫婦の揺らぐことのない信頼関係があったからこそ、十年余りの長きにわたり病名を伝えることなく療養生活を乗り越えることができたのだろうと思いました。と同時に、ご主人から告知を受けることにより真実を分かち合って歩み始めているSさん夫婦の仲の良い姿を思い描きながら、ほのぼのとした気持ちに満たされたのでした。

【第四章 尊厳】から

先生、早く死にたいの

四十代後半で一児の母でもあるSさんは、五年前の初夏に大きな直腸ガンで低位前方切除術という、人工肛門を作らずガンを取り除く手術を受けました。しかし、術前に高い値を示した腫瘍マーカーが術後も十分に下がりきらず、体のどこかにガンが残っていることが疑われました。

一年たったころに、Sさんは右のお尻に痛みを覚えるようになりました。CTで骨盤の中を調べると、手術で縫い合わせた直腸に接した筋肉から周囲にかけてガンが広がっているのが分かりました。痛みが強かったため、モルヒネ徐放剤を服用してもらいました。

夏の間は痛みもなく穏やかに自宅で生活できていましたが、冬になると鎮痛薬を増やしても痛みは消えず、年末から年始にかけて大学病院で放射線治療を受けました。この治療により痛みは和らぎ、モルヒネ徐放剤の量も六分の一に減りました。しかし、体調は一進一退で、その年の七月に腸閉塞となり、四回目の入院となってしまいました。

わき腹から小腸内に管を入れ、腸にたまったガスの出口を作りました。おなかの張りは取れたものの、骨盤の中にできたしこりが尿管をふさぎ、尿が出なくなりました。腎不全を防ぐため、まだ働きの残っている片方の腎臓に管を入れ、尿の出口を作りました。

しばらくすると恥骨近くの下腹に自然と別の穴があき、そこから尿が出始めたので尿をためる袋を貼りました。

Sさんのおなかは、三カ月の間に小腸のチューブによる人工肛門、腎臓からの管、そして下腹の尿の出口と複雑な様相を呈してきたのでした。

秋になったある日、病室を訪ねた僕に向かって普段は訴えの少ないSさんが、ぼつりとつぶやきました。
「先生、私はもう良くならないのですね。早く死にたいの……」

僕はSさんの病状を自分に置き換えて考えた時、まったく同じ思いになるだろうなと思うと、言葉に詰まってしばらく返事ができませんでした。

そして、「今以上に体調が改善するのは難しいかもしれないけれど、痛みや吐き気といった不快な症状は一つ一つ取り去っていくことができるので、遠慮せずに私か看護師に言ってください。つらい思いはためずに私たちに話してくださいね」
と、答えたのでした。

◆◇◆

その日から、「死にたい」という言葉の中に含まれるSさんの真意を気付かせてもらおうと、スタッフ一同でSさんの一言一句を心に留めるようにしました。

三日目に看護師が「Sさんはお風呂に入りたいそうです」と教えてくれました。

早速、
「明日、気分が良ければ入浴しましょう。器械を使うので横になったまま楽に入れますよ。看護師もお手伝いして妹さんと一緒にお世話しますので、安心してください」とお話しすると、Sさんの表情に明るさが戻りました。

翌日、気分はいかがですかと尋ねると、Sさんは穏やかな表情で「頭が少し痛いのでお風呂は明日にします」と答え、看護師とも普段通りの何気ない会話を続けるのでした。

五日目の朝、Sさんの血圧は徐々に下がりはじめ、その日の昼すぎ、静かに息を引き取りました。

ガンの末期患者さんの治療に当たっていますと、Sさんのように時に「もう死にたい」と切ない心の内を語る患者さんに出会います。

そのような場面に遭遇した時、私たちは患者さんの気持ちとじっと向き合うように努めます。そして、重くつらい気持ちが少しでも軽くなるようなお手伝いができないかとベッドサイドに座り、無言のまましばしの時を過ごします。

Sさんのように入浴−寝たきりで体のあちらこちらから管が出ている状態で、とても無理だと自分からあきらめていたこと−ができると分かった時に小さな希望がわいてくる場合もあります。また、
〈私は皆さんから大事にされている。愛されている〉と実感したとき、人は生きようとする力を授かるものだと、経験豊かなホスピス医から教わったことがあります。

無口で辛抱強いSさんがつぶやいた一言に、忘れてはならないターミナルケアの原点を学んだのでした。